黒田官兵衛〜作家・童門冬二氏インタビュー〜

黒田官兵衛〜作家・童門冬二氏インタビュー〜

天下は狙っていなかった

童門冬二氏【時事通信社】
童門冬二氏【時事通信社】

 ―官兵衛には、自分が天下人になる「野望」はあったのでしょうか。

 童門:なかったと思います。官兵衛には高い先見性があって、歴史の流れを先読みしていました。織田信長が旧来の仕組みを破壊して、豊臣秀吉が新しいものを建設し、徳川家康がそれを維持・管理していくという役割を早い段階から見通していましたから、そこに自分の出る幕があるとは考えなかったと思います。

 ―徳川家康が天下人となった関が原の戦いの時、官兵衛は九州・豊前(現在の福岡・大分県)にいましたが、東軍(徳川側)に付いて九州の西軍(豊臣側)武将と戦っています。その戦いぶりが鮮やかで、一説には九州を統一して、本州にまで押し寄せる考えもあったと言われています。

 童門:その当時の黒田家は、豊前6郡を治めているだけで、(禄高は)せいぜい18万石です。動員できる兵力もそれほど多くはありませんから、とても天下を狙えるような位置にはいません。官兵衛ほどの人物が、それを理解していないはずはないと思います。

 ―関が原の戦いの後、黒田家は筑前・福岡52万石の領地を与えられます。その後、幕末まで福岡藩黒田家は存続するわけですが、やはり基礎を築いた官兵衛の功績が大きかったということでしょうか。

 童門:官兵衛は、武将としての統率力があっただけでなく、経営感覚にも優れていました。

 ―その感覚は、どのようにして磨いたのでしょうか。

 童門:官兵衛は若いころから苦労を重ねてきましたから、さまざまな苦難に立ち向かう対応策をたくさん身に付けていたのだと思います。例えば、官兵衛は倹約家でしたが、常々「ケチと倹約は違う」と言っていたそうです。

 ―無駄な出費をせず、必要なところに使うということでしょうか。

 童門:そうです。それから、官兵衛は「人使いの名人」としても知られていました。

 ―黒田家は家臣団の結束が固かったという話ですね。

 童門:官兵衛は義理堅く、律義な人物でしたから、周囲から慕われたはずです。

 ―下剋上の時代に義理堅い武将というのは珍しいですが、人間としての官兵衛をどのように評価されますか。

 童門:官兵衛のことを調べているうちに人柄が分かって、戦国武将の中でもとても好きな存在になりました。同じ時代に生きていれば、一緒に酒を飲んで語り合いたいような人物です。

 童門冬二(どうもん・ふゆじ)氏
 1927年東京生まれ。東京都庁に勤務し、知事秘書、広報室長、企画調整局長、政務室長などを歴任後、79年に退職。本格的な作家活動に入る。「暗い川が手を叩く」で第34回芥川賞候補。99年勲三等瑞宝章を受章。ベストセラーとなった「上杉鷹山」のほか、歴史に題材を求めながら、「組織と人間」をテーマに据えた作品を発表し続けている。

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